其の壱、染井・霧島屋の伊藤伊兵衛、カエデに注いだ情熱

対談風景
歳旦ものを見つめるご隠居とまかてさん

先進的でユニークだった「江戸の園芸」を語る。小笠原左衛門尉亮軒(ご隠居)×朝井まかて(直木賞作家)―『NHK趣味の園芸』2018年1月号「新春対談」【番外編】

最初に登場するのは染井の霧島屋。「江戸の園芸」を語るとき、なくてはならない園芸家です。当時の染井、現在の豊島区駒込付近は植木商・植木職人など多くの園芸家が集まる江戸園芸の集積地の一つ。代々、伊藤伊兵衛を襲名した霧島屋の仕事とは……。

染井・霧島屋の伊藤伊兵衛、カエデに注いだ情熱

朝井 江戸の園芸でまず触れなくてはいけないのは、染井の植木商・霧島屋ですね、ご隠居。

小笠原 そのとおりです。霧島屋は江戸の園芸文化に大変な貢献をしました。将軍家に力量を見込まれ、江戸城出入りの植木商になったほどです。

朝井 ええ。江戸では17世紀後半にはすでに相当な数の植木職人・植木商がいたことがわかっていますが、霧島屋はそのトップ。「江戸第一の植木屋」と謳われました。

小笠原 まかてさんが実感できそうなたとえでいえば、霧島屋が出した『花壇地錦抄(かだんぢきんしょう)』。これは日本で初めての総合園芸書です。その後の『増補 広益(こうえき)附録』、そして代々、増補した『地錦抄』は、実用書ながら明治になるまで売れた超ロングセラーだったのです。

朝井 じつは私、翻刻された『花壇地錦抄』を持っています。つまり元禄期に発行された書物を、400年後の平成の小説家が使っている(笑)。

小笠原 その霧島屋があったのが江戸の染井です。

朝井 私のデビュー作は『実さえ花さえ』(のち『花競べ(はなくらべ)』に改題)でしたが、その作品で霧島屋をモデルにした植木商を登場させました。霧島屋は津藩の藤堂家の下屋敷に近いこともあり、藤堂家とは縁が深かったようですね。

小笠原 染井は現在の豊島区駒込6丁目から7丁目あたりです。ちょうど今、都立染井霊園がありますね。古い地図を見ると、藤堂家のほかに加賀の前田家、少し離れたところに現在の六義園になる松平時之助下屋敷(柳沢家下屋敷)といった大きな大名の屋敷が並んでいます。その古地図に目を凝らすと、「藤堂和泉守」屋敷図の前に、「此辺、染井村植木屋多シ」という文字が記されています。江戸時代、植木の里として多くの植木職人、園芸ノウハウが集積していたと考えられます。

真言宗・西福寺
伊藤伊兵衛の墓がある駒込6丁目、真言宗・西福寺
伊藤伊兵衛の墓
伊藤伊兵衛の墓。「樹仙」という法名が確認できるが、政武のものかどうか諸説がある
浄土宗・専修院
伊藤伊兵衛屋敷跡とされる、駒込7丁目の浄土宗・専修院。西福寺からほど近い

朝井 大名屋敷の広大な庭が、江戸のグリーンビジネスを発展させる契機になりましたね。そして花好きの将軍・大名たちによって、植木職人らは腕を磨いていった。天下泰平が続いたこともあって庶民にも愛好熱が広がり、江戸は花と緑に溢れたそれは美しい風景を呈するようになります。そのリーダー、立役者であったのが霧島屋ですね。当主は代々、伊藤伊兵衛を名乗り、とくに三之烝(さんのじょう)・政武親子が有名です。

小笠原 父の伊兵衛三之烝は元禄年間(17世紀後半)のツツジの流行を促し、園芸書で名を馳せました。自らを野人(農夫)と称しながらも、大変な教養人です。享保(18世紀前半)の頃の伊兵衛政武はカエデの品種の蒐集と新品種の作出に力を注ぎ、三十六歌仙にちなんで命名しました。

朝井 政武はカエデ類が得意で、晩年は「楓葉軒(ふうようけん)」と号したほどの人。彼が生きた時代の将軍は8代・吉宗で、飛鳥山にサクラを植える事業にも尽力したことでも有名です。そういえば吉宗が外国から献上された樹木の名がわからず、政武を召して尋ねたという逸話がありますね。

小笠原 はい。政武は、新しいカエデではあるものの日本在来のカエデではないということから、先人が遺した和歌から命名せず、あえて「トウカエデ、唐楓」としたのです。

トウカエデ
トウカエデ。盆栽などにもよく利用されている(撮影:牧稔人)

朝井 当時、異国のものはすべて唐物(からもの)と呼びましたから、「このカエデは日本にはない品種」だと判断し、外来種であることがわかるネーミングにしたのですね。

小笠原 そうです。政武はコレクションし、作出したカエデに、古の歌人が詠んだ24の歌集にある和歌から名前を付け、「古歌僊楓(こかせんかえで)」、「新歌仙楓(しんかせんかえで)」、「追加楓葉集(ついかかえではしゅう)」のカエデ3部作を発表しています。

朝井 掲載された品種は、どれくらいの数だったのですか。

小笠原 全部で100品種ほどなのですが、一つひとつの和歌を理解して名付けているように思えます。ところが、不思議なことに、秋を代表する三夕の和歌が見当たらないのです。

朝井 確かに妙ですね。寂蓮法師、西行法師、藤原定家の三夕の和歌(*1)は有名なものですから、彼が知らないはずがない。しかもカエデは新緑も美しいですが、やはり紅葉。秋という季節は重要です。

小笠原 「なぜ?」という疑問をもちつつ過ごしていたある日、古書店の目録にあった「三夕楓之図(さんせきかえでのず)」に目が留まり、幸い、入手することができたのです。

朝井 それで、三夕の疑問が解けたのですか!

小笠原 はい。政武が三夕の歌を100種に加えなかったのは、それにふさわしい品種の作出を待っていたからなのです。それらが揃ったところで、ついに三夕になぞらえたカエデを発表しました。寛保二年の1742年です。

朝井 さすが、「楓葉軒」ならではの矜持ですね。

三夕楓之図
「三夕楓之図」。政武とっておきのカエデ品種、「槙立山(まきたつやま)」、「鴫立沢(しぎたつさわ)」、「浦苫屋(うらのとまや)」が記載されている(所蔵:雑花園文庫)
鴫立沢
品種「鴫立沢」。政武が三夕の和歌から名付けた3品種のうち、現存する唯一の品種(撮影:丸山滋)

小笠原 これにはおまけが付きました。「伊藤伊兵衛」については不明な点がまだまだあり、昔から論議されてきたのですが、「三夕楓之図」は伊兵衛政武の没年を修正する史料になりました。政武の没年には宝暦7年(1757年)説と元文4年(1739年)説あったのですが、政武が「三夕楓之図」を手がけたことが確認された結果、元文4年の時点で政武は生きていたことになるのです。江戸の研究をしていた博物学者の、慶應義塾大学の磯野直秀教授に確認したとき、「小笠原さん、政武の寿命が3年延びました」と語った彼の言葉が印象的でした。

朝井 ご隠居の「なぜ?」が、伊兵衛政武を呼び寄せたのですね。だから歴史との対話は面白い。時空を超えます。

旧丹羽家の門
駒込6丁目に残される旧丹羽家の門。藤堂家下屋敷の裏門とされる(丹羽家はその昔、染井の植木職人だった)

*1 三夕の和歌――「新古今和歌集」で「秋の夕暮」で終わる三首の和歌
寂蓮 「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕ぐれ」
西行 「こころなき身にもあはれはしられけりしぎたつ沢の秋の夕暮」
藤原定家 「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとま屋の秋の夕暮」

目次

小笠原左衛門尉亮軒×朝井まかて対談 トップページ

其の壱、染井・霧島屋の伊藤伊兵衛、カエデに注いだ情熱

其の弐、江戸・染井のオープンガーデン

其の参、松平定信と前田利保~花が教える江戸の趣味人たち


取材協力/名古屋園芸、雑花園文庫

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