朝井 江戸時代の園芸文化が花開いた背景には、まず平和が長く続いたこと、そして花好きの将軍や大名が多かったことも大きいでしょう。寛政の改革で知られる松平定信もその一人でした。私は『花競べ』のなかで、江戸の園芸を陰で庇護する存在として定信を登場させました。
小笠原 定信は御三卿の一つ、田安家に生まれ、大変、頭脳明晰で優秀なお殿様だったようです。それゆえか、田沼意次などによって奥州・白河藩の養子に出されてしまいました。定信は8代将軍・吉宗の孫、父親は歌人あるいは国学者としても優れた宗武です。
朝井 そういえば、現代にも通じるような面白いエピソードがありますね。当時、幕閣を務める大名でも難しい漢字を読めない人は珍しくなく、しかし定信は文書をしっかりと読んで理解するので、修正すべき点をすぐに指摘できる。で、官僚である役人が「此度の御老中はお読みになれるので、ごまかしがきかない」、つまり頭の切れる老中だから御しにくいとボヤいていたらしいです(笑)。
小笠原 当時、天明の大飢饉がありましたが、白河藩は餓死者を出さなかったといわれるほど、定信は藩主としてよく対処し、白河藩の立て直しに尽力したといわれます。その手腕が買われて老中首座に座ることになるのです。
朝井 そして、質素倹約を旨とした寛政の改革を行いました。定信は自らも率先して粗衣粗食を心掛けたことで有名で、その点は祖父である吉宗譲りです。
小笠原 失脚した重商主義政策の田沼意次に代わり、寛政の改革を進めましたが、当時の狂歌で「白河の清きに魚も住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と揶揄されました。
朝井 そうですね。清廉潔白な堅物のようにいわれて、実際、奢侈を戒められた大奥から総スカンを喰らい、それが失脚の原因になったとされています。女性を怒らせると怖いのは、今も昔も変わりません(笑)。ただ、彼は単なる堅物ではなく、改革時、風儀を乱したとして絵師の谷文晁を捕えさせたのですが、出牢後の彼を重用して花の図譜を描かせているんです。定信は自らの信ずるところがちゃんとあって、その芯がぶれない人であったと私は捉えています。
小笠原 定信は現在の築地市場のところに「浴恩園(よくおんえん)」と呼ばれる広大な庭園を造り、花のコレクションを楽しんでいました。日本中からサクラを収集し、咲かせたりしていたのです。
朝井 浴恩園はその後、どうなったのでしょうか。
小笠原 幕末の頃にはもう姿を消してしまっています。現在の築地市場の辺りですね。彼が集めたサクラの記録画を見ていると、「定信の趣味のよさ」を感じます。定信とは関係がある桑名の博物館に残る「浴恩園」屋敷図を見ると、収集したハスが一つひとつ別の甕で育てています。実は貝原益軒が『花譜』で「ハスをまとめて植えると弱いハスが消えてなくなること」を指摘していて、その知識をふまえ、弱いハスを守るためにそうしていたのではないかと思います。定信は集めたハスの図譜を残していますが、彼自身が描いたといわれています。
朝井 展覧会でその図譜を見たことがありますが、とてもいい絵でした。夏の早朝、ハスの甕の前で筆を持つ姿を想像すると、少年のような横顔が浮かんで、微笑んでしまいます。
小笠原 そうですね、定信の花に対する並々ならぬ情熱を思います。花好きといえば、天保の頃の博物大名、富山藩の前田利保もユニークな存在でしたね。面白い話があって、横浜植木の創業当時、取締役を務めた内山長太郎が少年だった頃、上野広小路で植木を売っていたとき利保と出会って……。
朝井 そうです、そうです。卑しからぬ姿の利保の問いにも堂々と答え、しかもわからないことは誤魔化さずに、「わからない」と答えたという。利保にはそれが、「面白い」となったようですね。
小笠原 その出会いがきっかけで、長太郎は利保の自邸に招かれました。そのとき初めて利保が富山10万石の大名だったことを知るわけです。
朝井 そして「植木屋長太郎」は、後に明治の植木界で活躍するんですね。
小笠原 博物大名だった利保は日新会(にっしんかい)という園芸好きの集いを、また本草学を研究するために赭鞭会(しゃべんかい)を主宰していました。そこでもやはり、大名も商人も植木職人も垣根なく交流したのです。
朝井 花の前ではみんな、純粋な趣味人。そこが日本の園芸文化のオリジナリティであり、誇るべき歴史です。花にまつわる教養も共有し、高め合ったんですものね。
小笠原 そうですね。園芸という視点から捉え直すと、日本史の教科書や時代劇などからイメージする江戸という社会が、また違ったものに見えてきます。そんなとき、江戸の園芸研究の面白さを感じます。
<完>
関連情報 名古屋園芸「花の博物館」
取材協力/名古屋園芸、雑花園文庫
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